| Bereshit1-1には早速厄介な(と言ってはいけないかもしれないが)Elohimに出会うことになりますね。三人称男性複数形です。何故神が複数なん?とはよく出る疑問。確かにこれを受ける動詞は単数です。主語と動詞が合いません。そこで、「尊厳の複数」なる名・珍解答の登場です。(ヨーロッパの言語事情の説明をヘブライ語に強引に当てはめるのは飛躍のしすぎというものです。)何を説明したいんでしょうね? 言葉は幾つかの文法指標を持っているけれど、忘れちゃあいけないのは、文法指標ではあるけれど、同時に意味そのものであると云うことを。日本語の環境に漬かっていると疎くなる部分かもしれない。だから何だ? だから!神は元来複数で存在していたと言うべきなんです。色々な時間、場所に現れるものだったのです。このように理解しておくべきだったのです。事実、神は其々の登場人物に立ち現われてくるのですから。其々に現れたんだけれども、それは一貫した存在なんだよ!と言う主張を言うために、いずれはひとつの固有名詞で呼ばれることになると言うことではないでしょうか?Elohimの役割はYHVH=固有名詞に対して範疇を表現していると見るべきでしょう。 |
2012年5月31日木曜日
| 何故、神々(複数)? |
2012年5月30日水曜日
| 週読区分タイトル(Parashot hashabua')について |
| Bereshit1-1のBet-Resh-Alefは使用例が限定されているらしいんだよね。伝統的には神を主語にする創造という意味しか提案されてないけど、実は数年前にオランダの女性考古学者Ellen van Wldeという人が過去のセム語派を洗い直して、分けるSeparateという意味ではないかと提案したんだよね! すると、それで読み直してみると、神は天と地を分けたとなるんだよね。 そう訳すとその後の訳にも影響してすっかり混乱する人と、全く水を得た魚の如く、眼が開かれたという人があるかもしれない。私はズバリ後者ですよ。私は神の行為に仮託した人の認識の仕方、覚醒のあり方と解釈しているからなんですね。 Bereshitと云うのは週読のタイトル(パラシャー)になっていて、この中に発音しないサイレントの文字(Alef)があってこれを含めると最初の三文字はBet-Resh-Alefになるんだな! するとこの週読(Parashah)のテーマにも直結する構造になっているんだな!まんざら単なる最初の単語を取っただけの週読タイトルじゃなかったと睨んでるんですよ! |
| 初めに |
| よく翻訳は難しいと言いますが、そんな程度の感想だけで良いんでしょうか? 翻訳はもっと怖い作業だと言うことが解らないと、翻訳に依拠する人たちがその後の大きな間違いを冒さないとも限りません。翻訳は間違いを冒す危険性があるのだと言うことを知ってると知らないとでは大きな違いがあります。 特に聖書「トーラー」と言うのはその読者が無謬性において疑いを差し挟むことを全くしない種類のものです。可哀想なのは読者です。聖書「トーラー」が間違いを含んでいるとはつゆ知らずです。読者と云う言葉を使うのはそれを信仰などの拠り所にしている人もそれを批判する人にとっても両方共と云うことです。 聖書は文学です。ヘブライ語の使用者の中で育まれた、ヘブライ語の個性の中で醸成された文学です。ならば、この文学を読む味わいたいのであれば、ヘブライ語を習得する以外に方法は存在しないと考えるしかないでしょう。最低でもヘブライ語の個性を知ることは必須となります。それを通して初めて聖書「トーラー」の本来の姿が解ろうというものです。ヘブライ語の聖書「トーラー」に肉薄してこそ初めて語れることがあろうと云うものです。 |
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