2012年6月4日月曜日

神と人との関係・構造

私は確かに様々な考え方、思想の影響を受けているのは認めるのですが、決してそれらに取り込まれた事も無く、それらの通りの考えに染まった訳でも無いことは断言出来ますし、それらは不可能だったと思います。ただし、恰も本当らしく疑いを差し挟む余地のないかのごとき認識構造に対しては大変迂闊なことでしたがとうとう打ち破ることが出来ませんでした。世界といったら大き過ぎるのであれば社会と言ったらより的確ですが、認識対象は与えられたものでしたので、物の名前は覚えることが当たり前の状態でした。自ら名付けるなんて思いもよりませんでした。しかし、聖書=トーラーの世界は違いました。自ら名付ける事は重要な行為として取り上げられていたのです。初めは神の行為としてでしたがそのうちに人の行為ともなりましたが、人は神との円環構造と云うか鏡像関係となっており、人は世界に働きかける存在として良しとされていました。いずれ、バベルの塔のところで人が言葉に躓く様子を見ながら人のするべきこととは何だったのかを考えたいと思います。Bereshitでは神と人との構造がどう設定されたかに気付くだけに留めます。